読書の記録「迢空・折口信夫研究」から抜粋とメモ

読書の記録「迢空・折口信夫研究」から抜粋とメモ

数年前に函館の古書店・浪月堂で購入した古書・「迢空・折口信夫研究」 を読みながらノートにとった内容を転記します。

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以下、ランダムに抜粋&メモして、

ときどき緑色の文字で自分の感想を付け加えていきます。

(*今日の記事は個人的なメモとして作成していますのでご了承ください。*)

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*短歌様式=現代人の呼吸に合わなくなった。

*短歌は日本人のゴーストに「おびかれて」しまう。

・・・私は短歌を読むとき、現代の自分から一歩下がって古の人々の感覚をなぞろうとしてしまいます。

そういうスタンスで読むのが当たり前だと感じてきましたが、必ずしもそれがいいとは限らない。

 


*「花道をさかさまに引き戻されてしまう」(池田弥三郎)

*短歌というものは思想が出てこず、抒情にとどまってしまう。

・・・歌を詠む、というのは現実の雑事から離れて抒情の世界で遊ぶこと、という印象がありましたが

そうなってくると、作品世界に耽溺してしまうのかな、と思いました。思想は、実生活と密着につながっている人間の中心でもあると思う。そこまでつっこむことなく、表現がおわってしまうということでしょうか。

 


*新体詩⇒短歌の新しい後継者、弱点も受け継いでしまった。

・・・立原道造などは新体詩といえる作品を残していますが、やはり、スタイルの新しい短歌という印象があります。ということは、形式は変わったけれど本質は同じもの、とも思えます。

 


*歌の弱みは、ことばの一つ一つが歴史をもちすぎているがゆえに断ち切って使えない。

・・・歌の読者になるとき、その一語がもっている意味や これまでどのように使われてきたかの知識がなれば正しく理解することは難しいでしょう。その「ことば」の意味を離れて、その一語を使うことは難しく、たとえば「花の色はうつりにけりないたづらに」というときの「花」の意味から離れて、短歌で「花」の一語を使うこと、読ませることは現段階では不可能かもしれませんネ><

 


*読者がそう理解すれば、作者にそれが戻ってくる。

*詩は、非連続の中に(文脈の中に)ことばを置ける。

*死者の書・・・「表現が緊密である」小説の読者にはたえられない。

*小説は本来アミューズメントなもの(柳田国男)・・読めるのはラッキー。

翻って 「死者の書」は上演されるのを待ち望んでいる書き方の劇⇒「非常にゆるいよ」「妥協しているね、そういうことに」。

*「ここを読んだ歌とは言い切れないわけなんだ。そこで読んだんだろうけども、そこに行ったときじゃないんだね」

・・・作品に具体的な描写があったからといって、それが現実と同じということは考えづらい・・・これは、表現のエッセンスをひっぱってくる過去の記憶と、作品を通して表したいことをドッキングして作ることが往々のしてあるからだと思います。

また、いくつかの記憶を組み合わせてひとつの言葉にしたり、自分は体験していないけれども非常に親密に感じている事柄を、自分の記憶のように表す場合もあると思います。作家は、作り手であるのだから当然のことだろうと思います。

 


*「幸い、ぼくらは全作品に一応目は通しているわけだから、一言いっておかなければと思う」

*「見方というものを触発されているんだから、どっちがほんとうなんだということは問題じゃなくて、今までのわれわれの固定した観念を破るようなことを見出して、それをぼくらに提出している、というところに意義がある。(略)学問というものは、それでいいんじゃないか」

・・・学者という存在について、この一文を読んでとても納得しました。

 


*すぐれたユニークな個性というのは その人を認めないかぎり その業績は認められない。何人かの場合はそれが許されてもいい。⇒折口信夫、柳田国男

 

・・・作家や学者は、その特異な個性がピックアップされたり、非難されたりすることもままあるかもしれません。でも、そういう一般常識からはみ出す部分も含めての本人の力量であり、仕事も生活もその人自身なのだから、何人かの優れた存在にはそれでいいではないか、と!

ただし、折口信夫や柳田国男のレベルなら、認められると言っているあたりが、

「なんでも個性がイイんだよー」という無責任なメッセージでは断じてない。ので、この一文は好きです。

 


*古代を現代において完結させる。

*がっかりしたことについて、がっかりしていない。

*大昔はよかったというのは、けしからん。古代をさらに完成しようと苦しんできた親々を 祖先を 侮辱するのはけしからん。その努力を受け継ぐのが愛情。~中間、中昔をぶっとばすのはおかしい。

*知識に開きがある⇒読者には夢があるが、その夢の部分を利用するのは、まやかしである。

 

・・・これは、色んな場面で思うこと。

どうやったって、プロフェッショナルの腕や知識は読者にとってはミラクルなものです。自分が同じことを出来たら、プロの仕事や作品に夢を見ることはないでしょう。

その、読者が憧れる部分というのがプロにとっては現実の一部で、その現実を見せずに結果を魅せるから、魔法のように感じられたりもするのです。

ただ、この一文ではその夢を利用するのは「まやかし」と言っています。

誠意ある表現と、何らかの利用目的あっての表現の違いはとても大きく、また重要なことです。

 

 

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~50歳の折口信夫について~

*「片すみだった、扱い方は。ただ隠然たるものがあって無視できなくなりかけていたけれども。」

*「それが先生に響いていなければやっぱり問題にならないでしょう。心のうちに響いていればちょっと大事なことだろうけれども。」

*「戦争中先生は、利用もされただろうけど、肝心のところへくると自分を押し通すから、結果としては軍事保護院なんて、向こうが利用したはずなのに、先生のほうが利用した形になってしまう。」

*「そういうところは、政治的じゃないけれども、妥協しておいて最後に自分を貫くから、利用したことになるわけだ。」

*「全部無言でいて、言いたいところになると一人でしゃべっちゃう。」

*「やっぱり あるそういうチャンスに結集してくる力ってものは 全くもって全然違うね。」(普段のようすで天才を判断することはできない)

*地道な肉付けであって、知を取り込むにとどまらない。


 

折口信夫の作家・研究者としてのしたたかさは、

私が大好きな本「私の折口信夫」(穂積生萩 著)にも多く描かれています。

「先生はずるい」と弟子に責められる場面もありますが、

こういった性質なくしては 戦中・戦後を生きながら弟子・孫弟子へと続く研究をのこすことは難しかったはず。

私はいつも、

「折口信夫の魅力は魔力であり、呪力でもあったのだなあ」と思いながら

折口信夫関連の文献を読んでいます。

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