函館の七夕・「ローソクもらい」受け継がれる思い、いつまでも

*このブログ記事は2017年7月の七夕前後に書いたものをまとめてあります*
ハロウィンのような函館の七夕
道南地方に引っ越してきてびっくりしたのは、
七夕の日には、『家や店を子ども達がお菓子をもらって歩く』、という
ハロウィンのような風習があるということです。
彦星と織姫の、年に一度の逢瀬・・という七夕ストーリーとはまた違って、なんだか楽しげですね。
(函館の街角・Photo:AsakoTsukimura)
この風習は「ローソクもらい」と呼ばれるもので、昔はお菓子ではなくてローソクをもらって歩いたという話を聞きました。
いつごろからローソクがお菓子になったのでしょうか?
私が聞いたところによると
いま40代の方は、お菓子だったそうです。60代の方はローソクだったそうです。
・・ということで、おそらく50年ほど前にローソクからお菓子に切り替わったのでしょうね。
子どもたちが歌う歌の変化
お菓子をもらうときに唄われる歌は
「竹に短冊、七夕祭り大いに祝おう!ローソク一本ちょうだいな」
です。意味も簡潔ですし、「祝おう!」というフレーズなど けっこう現代的な歌詞なので、新しい歌なのかな?と調べてみたら、
かつては歌詞が違ったようです。
現在⇒ 「竹に短冊七夕祭り 大いに祝おう ローソク一本ちょうだいなー」
ちょっと前⇒ 「竹に短冊七夕祭り 多い(追い)は嫌よ ローソク一本ちょうだいなー」
昭和50年代まで⇒ 「竹に短冊七夕祭り おーいやいやよ ローソク一本ちょうだいなー」
昭和30年代以前⇒ 「竹に短冊七夕祭り おーいやいやよ ローソク一本ちょうだいなー ローソクけなきゃ かっちゃくぞー」
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・・・なるほど。「おおいに祝おう」っていう部分が、歌詞の中で浮いているなあ・・・と感じていましたが
もともとは「おーいやいやよ」だったんですね(笑)
「ローソクもらい」で練り歩いている列には お洒落をしている子どもも多くて、目に鮮やかです。
ほんとうに、お祭りイベントなんだなあと思います^^
歌をうたうっていう体験も、子どもらしくていいですよね。
こういう風習がちゃんと残っているというのは、地域コミュニティーがしっかりしている証しだと感じます。
この時期、地元スーパーではお菓子の大入り袋がいっぱい売られていたりして、
目にも楽しい函館の七夕なのでした。
ローソクもらいの歌詞についてお寄せ頂いたコメント
きのう、函館の七夕についてBLOGをアップしたあとに
色々な方から「ローソクもらい」の歌についてコメントをいただきました。
さらに、今日お会いした方にも直接お話を伺うことができました。
「竹に短冊七夕祭り 『○○○○』 ローソク一本ちょうだいなー」
この歌の、『○○○○』の部分をどう歌っていたか?というお話でした。
いきさつは、昨日の記事をご参照ください。
計10名の方から伺った内容をもとに、ざっくりですが^^;表にまとめてみました。
こんな感じです。
「子どもの頃、おーいやいやよ!って歌ってました。」(昭和53年頃~昭和62年頃)
「「多いは嫌よ」と、歌ってました」(昭和40年代)
「大いに祝おうと歌ってました」(昭和40年代)
「「お追いは嫌よ(追い払わないでくださいね)」というふうに教えてもらいました。」(昭和30年代終わり~昭和40年代はじめ)
「多いは嫌よと、追いは嫌よと、大いに祝おうの3種類を幼少期に歌ってました。」
「おお祝・祝よ」(昭和20年代終わり~)
「ローソクもらい」で子どもたちがもらえるものの変化
また、「ローソクもらい」でもらえるものがローソクからお菓子に変化していったことについては
「ローソクとお菓子が混在してた頃です。お菓子禁止の通達もあったような」(昭和40年代)
「ローソクもお菓子も両方でした。お菓子のほとんどは飴ちゃんでしたね。たまにバナナとかあったりしました。」
と、ローソクのみだったのが30年代ころまで、そのあとお菓子も配られるようになって、現在のお菓子主流になったようです。
そして、この「ローソクもらい」は函館のみの風習ではなく 札幌などでも同様に行われていると教えて頂きました。
北海道全域ではありませんが、道内のいくつかの土地で同様の風習が続けられているそうです。
「札幌でもローソクだ~せ~だ~せ~よ、出さなきゃかっちゃくぞ~!と、子供達がお菓子もらって回っていた」(10年ほど前、札幌)
私は横浜出身で、七夕は函館と同じ7月7日だったのですが
この「ローソクもらい」という風習については北海道に移住するまで全く知りませんでした。
歌詞の一部のみがここまで違うのは、「掛け声だった部分に言葉をあてはめたから」という認識が主流のようですね。
今日、七飯ご出身の数名の方から伺ったところ 新しい歌詞だと思っていた「おおいに祝おう」も、昭和30年代には既にあったそうです。
きっと、現代の言葉でもそのままなじみやすい歌詞が残ったのでしょう。
この風習について、詳しくは以下のWikipedeaをご参照ください><。
「ローソクもらい」
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%82%82%E3%82%89%E3%81%84 )
今回 色々と貴重な話を聞かせてくださった皆さま、本当にありがとうございました!!
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函館の七夕、「ローソクもらい」についての続々編です。
七夕を過ぎてからも 色々な方が「ローソクもらい」について教えてくださいました。
それにしても、「ローソクもらい」・・・聞けば聞くほどびっくりです。
函館で暮らしてきた方にとっては 当たりまえの恒例行事かもしれませんが
「ローソクもらい」のない地域から来た私にとって
これは、驚くべき風習なのです。
(photo: AsakoTsukimura)
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まず、子ども達が知らない家を訪問する ということ。
安全な環境がなければ、この部分だけでもう成り立ちません。
ちなみに私が育ったのは、マンション街・団地街で構成された横浜の住宅地でした。
近所に立ち並ぶ5階~15階のマンションや団地にどんな人が住んでいるのか、数十年住んでいても把握できていませんでした。
知らない家のインターホンを鳴らすことも、居住区域ではない場所に立ち入ることも、かなりの危険がともなう行為とされていました。
ですから、道南地方に移住してから知った七夕の「ローソクもらい」を知ったとき、
ここがまるで「桃源郷」のように思えたのです。
(大げさでなく。)
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そして、見ず知らずの子どもたちに気前よくお菓子(かつてはローソク)を配ること。
手作りのお菓子や、(バラのものではなく)箱ごと配る方もいらっしゃると聞いて、さらにびっくり。
子ども一人あたりの予算を100円くらいに設定する場合もあると伺いました。
こういう行事にシブるのは無粋なのかもしれませんが、
それにしたって かなりのコストですよね。
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ここからは、Twitterを通して函館在住の方から教えて頂いた内容です。
前回の記事であいまいになっていた、
「ローソクもらい」でもらうものがローソクからお菓子へ切り替わったのはいつごろからか?
という点です。
その方によると
昭和50年生まれくらいまでは、ローソクとお菓子をもらっていた そうです(ローソク1本に飴玉2個など)。
昭和60年生まれくらいには お菓子のみに切り替わった とのことです。
*その後、Twitterを通して別の方達からも情報をご提供いただきましたので追記させて頂きます。
•昭和47年生まれの方は、ローソクのみだった
•昭和49年生まれの方は、4歳ころに提灯を持って歩いていたが 小学校中学年ころには提灯を持たずに歩いていた
•昭和51年生まれの方は、お菓子になっていた
函館では、昭和55年生まれくらいから子どもの数が激減したため、迎える家の方でも
子ども達が喜んでくれるお菓子を豪華にするようになったのでは、・・とのことでした。
現在は、子ども1人にだいたい100円前後のお菓子が配られることもあるそうですね。
子ども達を喜ばせることにフォーカスしてきたからこそ、「ローソクもらい」は人々に愛されてきたのでしょう。
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今回 改めて感じたのは、函館に暮らす人々にとって 「ローソクもらい」は特別思い入れのある、大切な風習だということ。
大人たちの心の中に「ローソクもらい」の思い出が灯っているからこそ
長年絶やさずに続いてきている・・・この思い出こそが、伝統のエネルギー源なのでしょうね。
今回 貴重なお話を聞かせてくださった皆さま
ありがとうございました!!
はじめまして。Twitterからこちらを知り興味深く読ませて頂いております(2023.7)
「函館の七夕」についての私の記憶を少しお知らせ致します。
生まれた時から、いえ生まれる前から7月7日は浴衣を着てちょうちんを持って、子供だけで夜遅くまで町内会を回れる年に一度のお祭りでした。古い記憶であり町内会限定のルールかもしれないので読み飛ばして下さい。
・小学生限定の記憶あり、未就学児は小1になるまでの我慢だった。雨天は中止。
・歌を歌うのが前提だったので、当然歌わなければロウソクはもらえない決まりだった。
・親は歩かずあくまでも子供のみ。子供は多く高学年が低学年の面倒を見るのが当然だった。
・ちょうちんには必ずロウソクの火を灯して歩いたので、高学年がマッチを持参し途中で火が 消えたりの時に対応していた。
・走るとロウソクの炎がちょうちんに燃え移り、時々ちょうちんを燃やしてしまう子供も散見された。ちょうちんを燃やさないようにゆっくり歩いたので風情があった。
・七夕の近くになると児童館で空き缶で作る七夕用のちょうちん作りをボランティアの大学生が教えに来てくれていた(空き缶だと燃えてしまう心配がないが浴衣にはマッチしなかった)
・行動は校区内と決められていたが、低学年の子供達の面倒を見ながらなのではじからはじまで歩く事は不可能だった。
・ロウソク以外に飴玉を一つつけてくれる家がたまにあってとても嬉しかった。そんな記憶の次の年くらいか、遠くで男子のみで行動していた子供達の「外人ハウス(当時遺愛高校の裏にあったとの事)に行ったら缶詰貰った~」「俺50円もらった~」との大きな声。「じゃあ行ってみる!」と行ける子供達は行ったようだが校区外でありやや距離があり行けなかった。以来だんだんロウソク以外に飴やお菓子の配布が増えていき今日に至っていると思っていた。
・当時”ロウソクもらい”という言葉は特になく「七夕行ってくる~」「七夕祭り回ってくる~」というのが普通だった。最近になって”ロウソクもらい”っていうのか~という違和感。
・自分が親になり今度は渡す番になったが何十年も経過するうちにいつのまにか未就学児を連れて親が押し寄せるようになり、更にはまだ歩けない乳幼児にまで「この子の分も!!」と当然のように”親”からの要求あり。「歌ったら貰える」というルールはどこへいってしまったのだろう?と苦笑の日々。”七夕飾りはもう出さない”という家の気持ちもよくわかるこの数年なのでした。長くなってしまい申し訳ありません。不適切な文章もあるかもしれませんので、その場合は削除して下さって構いません。
夢乃さま
コメント返信が大変遅れてしまい、申し訳ございません。
貴重な体験談をありがとうございます!
今はローソクもらいに保護者がついている場合もありますが、当時は子どものみだったのですね。
しかも夜間・・気が気でない親御さんも多かったのではないでしょうか。今の感覚で考えてはいけない気もしますが^^
今は、未就学児にも親御さんからのお菓子要求があるんですね。
きっと、どんどん新しくなっていく=参加者が作っていく行事なのかなあと思いながら
まだ七夕未体験の我が家は、ドキドキしてしまいます。
とても読みやすく、また貴重で具体的な内容を教えていただけて嬉しいです。
来年の七夕が楽しみになりました。