自分の心をだれかに見せる。

15年ほど前のこと。

午後19時ころに横浜線に乗っていたとき、ドア横の手すりにうずくまっている女性がいた。

仕事からの帰宅中らしく淡い色のスーツ上下を着ている。顔は見えない。

私は近くのシートに座っていたので、席を譲ろうと声をかけた。

「大丈夫ですか。座りませんか。」

その女性は、体調が悪いのか、何かあったのか

帰宅ラッシュの電車内でうずくまっている背中がほんとうにきつそうだった。

声に反応して少し顔をあげたその人は、顔を真っ赤にして泣いているようだった。

「大丈夫です、すみません、大丈夫です。」

か細い声で答えながら少しだけ立ち上がったけれど、また背中をまるめてしゃがみこんでしまった。

 

何駅か過ぎるなかで、周りの人は何事もないかのように乗車したり降車したりしていた。

私は、電車で背中をまるめている彼女の近くに座ったままだった。

本当に体がきついのかもしれないし、立ち上がれないほどのことがあったのかもしれない。

「あの、出来ることあったら言ってください。」

もう一回声をかけずにはいられなかった。

なぜなら、私も高校時代にそうやってクラスメートに救われたことがあったから。

 


 

高校二年生の朝。

登校前に、仕事に出かける間際だった母親と激しい口論になった。

家族間のことは、何十年経ても言葉にできないことが沢山ある。

その朝は、本当につらくて悲しかった。

 

たまたまだったか、学校へ行く道すがら、別の高校に通っていた友達と公園で会った。

友達は私の状態をみて顔色を変えて駆け寄り、心配してくれた。

泣いていたのかまでは覚えていないけれど、私は憔悴していたのだと思う。

そのまま学校へ行き教室に入ると、一人のクラスメートが傍にきて手を握ってくれた。

その時の私は、教室に入ったはいいけれどそれ以上動けなかった。

手を取って教室の中まで連れて行ってくれたその子の姿を、今でもありありと思い出せる。

たった一日の、短い朝の時間のなかで私を助けてくれた友人たち。

彼女たちが 私に傾けてくれた心と、とってくれた行動には

その後の人生で繰り返し救われてきた。

 


 

それからまた何駅か過ぎ、うずくまっていた女性は立ち上がって電車を降りて行った。

電車を降りるときに、何回も私に「ありがとうございました」と言って

頭を下げて、ドアが閉まってもこちらを見ていてくれた。

 

その気持ちは、私へのものだったかもしれないけれど

私は

かつて私を救ってくれた、友人達へのものだったと思う。

 

ひとの心には、どんなに時間がたっても癒えない傷がある。

それは思い出すたびにいたむかもしれない。

 

そのとき、誰かが助けようとしてくれたかもしれない。

心配をしてくれていたかもしれない。

もし自分1人だったとしても、ずっと前に誰かが傾けてくれた心を思い出すことで

いまの時を、乗り越えられるかもしれない。

 

自分の心は自分のものだけれど

その心を誰かに見せたり、人前で泣いたりしたっていいんだと思う。

 

 

 

 

 

 

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