むかし函館にいた「洗濯ばあさん」「風呂敷ばあさん」について(2023年6月23日最終編集)

この記事は2011年から書いていた前ブログの記事をこちらのブログに再掲載したものです。

*追記あり(2015/7/2)(2024/6/23)

 


 

先日、何代にもわたって函館で暮らしている方とお話しをした際に

昭和20年代~30年代に大手町~宝来町のあたりにいた「洗濯ばあさん」(もしくは「風呂敷ばあさん」)のことを聞きました。

 

大手町、宝来町、大森町で育った方達が 共通の話題としてこの方のことを話されていました。

 

 

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「洗濯ばあさん」「風呂敷ばあさん」とは?

 

・いつも大きな風呂敷に大量の洗濯物(?)をくるんで背負っている

・おそらく住居はなく、公共の場にある水道や井戸や水路を転々としている

・施しは一切受けない

・周辺の住民が暮らしを心配して声をかけると、反対に「あんたさんこそ年相応のものを着なさい」と諭される

・洗濯をすることで生計を立てていたのか、常に水場を回っては洗濯をしている

・人とかかわらず 常に単独行動

・誇り高い

・高齢になり、住民が心配して施設にかけあって 高齢者施設に入居したことがあった。施設では用意されたベッドには眠らず床の上に直接寝て、食事も手をつけず、唯一おにぎりだけを立ったまま食べた。ほどなく脱走して施設には戻らなかった。

・施設に一時保護された際は65歳くらいだったという

・西部地区に居ることが多かったが、ちょっと離れた町の人々からも「洗濯ばあさん」と呼ばれていた

・遠い土地から来たらしい

 


 

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追記① ~2015/7/2~

 

その後、お母さんが「洗濯ばあさん」をよく見ていたという方からお話を伺う機会がありました。

その方のお母さんは、当時大門地区の真砂町(当時)に住んでいて

函館駅裏の連絡船が発着する場所で、洗濯のお仕事をする「洗濯ばあさん」をよく見ていたそうです。

その方は、子ども時代にお母さんから叱られるとき

「あんたは洗濯ばばの子どもなんだよ」といった内容の云われ方をされたことがあるそうです。

同じニュアンスでは、「橋の下で拾ってきた」という文句が近いのかな、、と云われていました。

 

 

SNSでも、「洗濯ばあさん」について複数の方からお話を伺うことができました。

また、この内容を読んだ研究者の方から「洗濯ばあさん」は「サンカの民」ではないだろうか、との指摘も頂きました。

 

一人の女性の存在・記憶から、かつての函館の風景が呼び戻されるような感覚です。

 

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追記② ~2024/6/23~

先日、X(旧twitter)でこの記事をリポストしたところ当時を知る数名のユーザー様から返信を頂きましたので許可を得て掲載させていただきます。掲載を快諾くださった皆様、ありがとうございます!!

 

 

・「小さい時はよく町中でみました。確か頭が五分刈りのようで腰には洗濯した布なのか、布を重ねて腰に巻いて歩いていたような記憶があります。」

(hiroko_artsさん)

 

・「宝来町の隣の青柳町に住んでいたのですがよく見かけました 当時小学生だった自分を含め仲間内で彼女を小馬鹿にしていたことを思い出すたびに「酷い言葉を投げつけたものだ」と反省してます」
(トウリョウ♂7a!さん)

 

・「私は実際に見たことがあります。 常にたくさんの衣類をしょっていて、水たまりですら選択の場所にし、お家を持っておらず、たくさんの傘でテントを作って寝泊りをしていた…と覚えています。 盆踊りの時に各町の婦人会の方々が躍る部隊の前で独自に踊ってい女性「踊り〇カ」とかいましたね」

(山下 悟さん)

 

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私が生まれ育った横浜・伊勢佐木町には かつて「メリーさん」と呼ばれる 街に立つ年配の女性がいました。彼女の存在は、多くの書籍や写真集・映像に残されていて、演劇や絵画作品にもなっています。

 

「洗濯ばあさん」のように人々の記憶に残る 家を持たない人々が日本中にいて、こうしてふとした時に人々の話に上ってくる・・・

かつて函館という街の、ひとつの風景だった彼女のことをメモしておきたいと思いました。

 




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むかし函館にいた「洗濯ばあさん」「風呂敷ばあさん」について(2023年6月23日最終編集)” に対して5件のコメントがあります。

  1. TK より:

    はじめまして。
    古い記事へのコメント、失礼いたします。
    どうやら「洗濯ばあさん」と「洗濯ばば」の二人がいたようですね。
    多分ですが、「あんたは洗濯ばばの子どもなんだよ」の方はニセモノと呼ばれていたようで、確か慰霊堂辺りのダンボールハウスに住んでいたような…
    当時は朝市の共同ごみ捨て場(サザエ食品さんの創業地前)に毎朝来ていました。
    そちらは「洗濯ばあさん」と違い、かなり嫌われていたようです。

    存在はご存知かと思われますが、砂山周辺などにあった山賊部落と呼ばれていた集落かS32に廃止された遊郭に、元は居られた御方ではなかったかと想像します。
    子供も育てていたようなので…
    集落については、佐藤さんの小説でも少し触れられていますね。
    映画では池脇千鶴さんが住人を演じていました。

    1. ツキムラ より:

      TK様
      はじめまして。
      貴重なコメントありがとうございます!
      返信が遅くなり申し訳ございません。

      「洗濯ばあさん」と「洗濯ばば」が別々の人だったとは!驚きました。
      どうりで、印象の食い違うような言い伝えがあったわけですね。慰霊堂当たりにいらした方は、遊郭にいらっしゃったというのはとても腑に落ちます。
      私の母が大門の遊郭跡で育ちましたので、赤線が廃止されたあとに行き場を失った女性たちのことを少し聞いていました。
      嫌われていたとなるといっそう胸が痛みます。子供を育てるのは本当に本当に、大変だったことでしょう。

      「そこのみにて、光輝く」は函館のシネマアイリスに観に行きました。
      実力派の俳優陣で素晴らしい作品でしたが、やはり原作の巨きな影がしっかりと
      消されずに生きていたことが名作となった要因だと感じました。

      また、何かお気付きのことなどございましたらぜひ教えてください。
      ありがとうございます。

  2. 氏家啓雄 より:

    1960年頃。青柳町に生まれ住み宝来町辺りを遊び場にしておりました。十字街の方から宝来市場周辺に向かって、毎日のように数人で走って来る剃髪、白塗りで派手な長襦袢を沢山羽織った女性達に、しょっちゅう出会いました。とても皆朗らかな人たちでした。成人して東京に住み現代舞踏関係者と話をする機会があり、大野一雄氏やギリヤーク尼崎氏ら、函館出身の舞踏家の衣装や化粧、振り付けに洗濯婆さんに似たものを感じると言ったところ、彼らの研究者達の間で非常に驚かれたことがありました。ここに書き残しておきます。

    1. ツキムラ より:

      氏家啓雄さま
      貴重なコメントをありがとうございます。また、返信が遅くなり申し訳ございませんでした。
      十字街も宝来町も、当時はにぎやかな商売の街だったと聞いています。氏家さまが出会った女性たちは、出勤中だったのでしょうか、。
      ギリヤーク尼ケ崎さん、大野一雄さんも、洗濯ばあさんのような故郷の女性を芸に宿して世界に出て行かれたのかもしれませんね。
      私は横浜出身で、地元では浜のメリーさんと呼ばれる女性が有名でしたが、有名ではなくとも身体ひとつで街中で生活している女性たちいました。
      親戚でも知り合いでもないのに、なぜか同じ街に住んでいた彼女たちのことが懐かしく、慕わしいです。
      その土地のその時代に生きたかたにしか知りえないお話をお伺いできて、とても嬉しいです。

  3. J.kawabe より:

    昭和30年代に松風町に住んでおりました。洗濯ばあさんは、週に1度は見かけました。今で言うホームレスでありましたが、清潔度いっぱいで、頭はいつも剃刀で剃りつるつる、衣服はボロでしたが、洗濯してあって清潔そのもの。水をくむための桶サイズの缶を腰からぶら下げていました。その当時、私の目には30代に見えました。ばあさんというご年齢でもなかったですが、当時30代は十分おばさん年齢でした。裸足の事が多く、服もペラペラ。雪が降るころはどうしているのか母に尋ねましたら、冬の間、大門グリーンベルトの果物屋さんが、慈悲で、商売が終わると土間に入れてあげている。夜はそこで眠って朝でかけると教えられました。果物屋さんは、現在ウルトラマンの像がある辺りにありました。認知ではなく、少し知的障害があった女性と聞いております。歯が何本か無く、小太りで、笑うとホテイサマのような笑顔の方でした。当時私は幼稚園児でしたが、彼女が好きでした。

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