古写真の整理|函館のむかし、先祖の生活|8枚アップ
今日は、ずっと何年もやらなくちゃと思っていた 古い写真の整理に行ってきました。
段ボールに何箱も、先祖代々の写真が残っているんですが
バラバラに保管されていることもあって、ずっと手つかずだったんです。
昔の函館の写真も多くあるので、いつかちゃんと見てみなくてはと思っていました。
先祖の暮らしぶりがわかる、貴重な写真でした。
函館の花柳界、日々の生活、記念写真・・・などなど。
とくに、かつての函館大門地区の写真などはとても興味深かったです。
最近歩いてきた一帯も写っていたりして。
街並みの写真や人物写真、貴重な資料になりうる写真は、これから調査に入ります。
今日は、それ以外の興味深い写真をUPします。
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昭和初期、函館山山頂へピクニックに行ったときの光景。
展望台も、あっさりしていますね。
当時の函館山は、今と違ってあまり樹木が茂っていなかったのがよくわかる写真です。
これ・・・おわかりになるでしょうか?
昭和初期の、いわゆる「自撮り」写真です。
鏡のなかに、三脚を立ててカメラをかまえた少年が映っていますね。
鏡台が本棚としても機能しています。
筆立ても見えます、なにやら丸めた紙や、積まれた本も。
もしかしたら、この少年はいつもこの鏡台のあたりで勉強していたのかもしれませんね。
床の間に鏡餅がそなえられていることから、どうやらお正月の晴れ着のようです。
同じく床の間には鶴の掛け軸、少女の頭上には富士山の絵も。
ぱつんと切りそろえられたおかっぱ髪が、少女の美しさを際立たせています。
この時代(昭和初期) 左腕に、いい腕時計をはめている青年です。
生花が花瓶に活けてあったり、椅子の奥にレースをあしらったカバーの座布団があったりして
裕福な家の御子息といった雰囲気です。
こちらは、愛国青年といった風情ですが・・・
じつは軍服姿の女性です。
昭和初期に話題になった、「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」・・・川島芳子の影響で
女性が男装をすることが流行った時期のポートレイトです。
川島芳子とは・・・
17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。 断髪した直後に、女を捨てるという決意文書をしたため、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとへ取材記者なども訪れるようになり、男装の麗人とまで呼ばれるようになった[2]。
芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。(Wikipedia「川島芳子」より抜粋)
これは、樺太の北緯50度線上にあった、
大日本帝国とロシアとの国境を示す標石です。
こちらは函館の稚児行列の写真ですね。
奥に、模型の象の鼻らしきものが見えます。
お釈迦様の生誕を祝う「花まつり」。
今年も函館駅前で稚児行列を見ました。
毎年、5月17日か18日に行うようです。
これらの写真の半分ほどは、現在も大門で営業されている
カメラのニセコさんで現像をお願いしていたようです。
当時は、「貴方の暗室 ニセコ商会」というキャッチフレーズだったのですね。
つい先日も、函館で活躍されているカメラマンの方の写真展を
カメラのニセコさんで開催していたので、見てきました。
祖父も、曾祖父も、お世話になっていたんですね・・・!
今日は、感慨深い一日でした。
そして、デジタルデータの写真は、少しでもプリントで残すほうがいい気がしてきました。
プリントというカタチで残ると、こうして後世の子孫が手に取ることができます。
デジタル画像がデータの状態で、どれくらい保存できるのか・・・
100年は、もたないですよね。やっぱり。
コツコツ、プリントアウトしようかなと思います。