「生きる」ことに結論はない「役にたつ」ことを求めない

ただ「生きる」だけの日々を認められるように。
俳優・三浦春馬さんが旅立たれたことは 特別三浦さんのファンでは無かった私にも 大変大きな衝撃でした。
本当のところは誰にも分かりません。三浦さんについて何かを言ったり考察したりする必要はなく
ただ 素晴らしい表現者である三浦さんの存在が 変わらずにあるだけだと思います。
ただひとつ、以前と少し変わったことがあります。
「生きる」ことへの関心が強くなり
書籍やSNSなどを読んでいても「生きる」ことについての言葉が目に付くようになりました。
そんな中、自分の素朴な実感として呟いたのが以下の内容です。
最近は結果をすぐに求めたり、結論を急いだりすることが当たり前になってきましたが、自分を顧みると
何も生み出さず、何もわからずただ過ごしたという日々がその後の自分を助けてくれたと思います。部屋でぼんやり過ごしたり、行先なく歩いて1日を過ごしたりした10代20代に今も支えられています— 月村朝子 (@tukiasa2) July 19, 2020
友達とサプライズもイベントもなく、ただ会って話すこと。知らない街で日暮れ近くまで迷子になること。本屋で長時間過ごして1冊だけ書籍を買うこと。当時は分からなかったけれど、すごくいい時間でした。若いころ、抱えたものをどうすることもできないから、ただ時間を過ごす。生きているだけの時間。
— 月村朝子 (@tukiasa2) July 19, 2020
ただ、生きているだけの時間。
結論や結果なんて必要ない、そんな時間を自分自身に認められるようになってから
「生きる」ことが単純に嬉しくなりました。
「役に立つ」ことを他者に求めてはいけない。
おもに 近年の進学受験や就職活動を見ているなかで感じていることですが
推薦枠が欲しいためにボランティアに参加するとか、役員になるとかいうことが当たり前になっています。
目先にご褒美(しかも当人にとってはかなり切実な)を提示した上で やる・やらないの判断をさせることが
本当に人間性を高めることにつながるのでしょうか?
たとえば受験で推薦枠が欲しいがためにボランティアに参加したとして
そこに、自分の利益を超えて「他者のために何かをする」というボランティア精神が芽生えるのでしょうか?
学校側としては 推薦枠にふさわしい人材として「他者のために貢献する精神がある」というのがボランティア活動を通して判断したいところだと思います。
それが
「自分が受験で優先的な立場を得られる、その目的のために提示された活動に取り組む」ということと
一致するとは思えません。
かなり極端な例を出しましたが、
「すぐに取り組むことができて 短期間にその結果が報酬として得られること」
で他者を判断してはいけないし
そもそも、他人をジャッジする(そして その立場に自分がある、と認識する)のは危険なことではないでしょうか。
「役に立つ」というのは、それなりに大事なことかもしれませんが
それを他者に求めることにより 根本的なゆがみやねじれが生じることは事実です。
そして、「他者のために貢献する精神がある」というような人間性は
表立った活動に取り組んで自己アピールをすること等で判断できるものばかりではありません。
もっと長期的に見て
様々な局面から浮かび上がってくるもの
そしてそれがゆっくり育っていくもの。
「生きる」時間のなかに息づいている精神が
人間性ではないでしょうか?
上記のようなことは
私自身が、長いこと目先の結果に縛られていたので
自分を振り返りつつ書きました。
「生きる」ことに結論はない。
「役にたつ」ことを求めない。
そして、ただ生きる日々の中から
好きなものを見つけて、大事にしてゆきたいです。