映画『スプリング・フィーバー』婁燁(ロウ・イエ)監督のゲリラ撮影による美しい映画のこと

 

私は、今はなき渋谷の映画館シネマライズで、ロウ・イエ監督作品 「スプリング・フィーバー」を3回観ました。

この作品を観られた方、どれくらいいらっしゃるでしょうか。

 

 

2010年、シネマ・ライズでの「スプリング・フィーバー」鑑賞直後に私がtweetした内容です。

 

「こういう題材で清潔感を維持してるの凄い。人物の関係性が崩れてないからだと思う。」

そして、帰宅してからの感想tweetです。

「役者のセリフが最小限というのが良かった。体全体の演技で充ち満ちていた。
また、変幻自在なカメラワークによる景色が、多くの心情を物語っていた。まさに読みとらせる作品だった。」

 

 

一見 動的に見える画面なのに、実は一点のムダもなく切り取られていて
始まりから終わりまで、ギリギリの描写しか出てこない。

人物のセリフにしろ、情景描写にしろ、余計なことを入れることなく描ききるという
ストイックさ。
このストイックさが、一種の東洋的な色気に繋がっている作品でした。

 

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それにしても この作品「スプリング・フィーバー」の生い立ちには驚きました。
監督の婁燁(ロウ・イエ)は、中国当局から5年間の映画製作禁止の処分を受けている状況で
この作品を作ったのです。

そのいきさつは、こうです。

 

 

婁燁(ロウ・イエ)監督は かつて「天安門・恋人たち」という映画を制作しましたが、
この作品に 1989年に発生した六四天安門事件についての描写があったことから、
現在も中国大陸での上映が禁止されています。

そして、この映画を制作したという理由で
婁燁(ロウ・イエ)監督とプロデューサーの耐安(ナイ・アン)は
中国当局から5年間の映画製作禁止という処分を受けたのです。

 

この謹慎処分の真っただ中に、「スプリング・フィーバー」は制作されました。

もちろん違法行為です。

 

しかし彼らは、中国当局に見つからないよう 最低限の機材と予算でゲリラ撮影を決行。
「スプリング・フィーバー」の映像は、なんと家庭用のハンディカメラで撮られています。

 

 

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昔から、芸術は権力によって支えられてきた ものでもあり
人間社会にとってこの二つは切っても切り離せない存在ともいえます。

ミケランジェロも、モーツアルトも、パトロン=権力者のバックアップなしにその名を残すことはできなかったでしょう。

 

 

しかし芸術と権力の歴史は、芸術が権力に服従するというものでは 決してありませんでした
芸術家たちはしたたかに権力を利用し、芸の腕を磨きあげ、後継者を育ててきたのです。

この作品「スプリング・フィーバー」も、当局からの圧力なしには生まれえなかった作品です。

婁燁(ロウ・イエ)監督は自らの逆境を逆手にとって

この美しい作品を世に送り出したのです。

 

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最低限の機材と、最低限の予算。
ゲリラ撮影によって生まれた作品「スプリング・フィーバー」ですが
私にとって、この映画は堅牢で 美しく、息をのむほどにロマンチックです。

この映画の制作陣は、政治や権力に抑圧されながらも
政治や権力への反発を映画にすることはしませんでした。

描かれているのは、どこまでも個々の「人間」の「愛情」。
このいさぎよさに 感動を覚えます。

 

 

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たとえ どんなに大金をつぎ込んでも どれだけのバックアップがあっても、

この映画のもつ美しさは生み出せないと思います。

 

 

「作品のもつ生命力」はひとりの人間が内に秘めた力と同じで
いつ いかなる形で花開くかはわかりません

だから、生まれた作品が出来るだけチャンスをつかめるように
生まれてきた命をまっとうできるように。

制作者や関係者は、手をつくして作品を育てようとする のでしょう。

 

スプリング・フィーバー公式サイト

 

 

 

 

 

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